前回、連歌の発句が俳句のルーツだともうしました。
      「俳句」という用語が「発句」にとって代わったのは、明治以後で 
      「連俳は文学に非ず」として、発句を連歌から切り離して「俳句」 
      として独立させた正岡子規とその後継者達の影響によるものです。
      
      私は、子規の連歌に関する見方は狭量で間違っていると思っていますが、過去の権威に囚われずに思ったことをずばずばと言った歌の世界の「革命家」としての気概に満ちた青年子規の文章には今でも惹かれます。
      
      子規は、実作者としてよりも、理論家として、新しい時代の短歌や俳句のあり方を方向付けました。大事なのは、彼が自分の理論に基づいて俳句の結社や句会のありかたを決めたことでしょう。
      
       たとえば、無署名で投句された句を選句し、点数を入れた後で披講するという現在普通に行われている句会の形式は、子規とその後継者達が始めたことで江戸時代の連歌俳諧の「座」にかわる俳句の「座」だったのです。
      
       ところで、今日は、室町時代の連歌の世界に颯爽と登場した若き論客、二条良基 
      (1320-1388) を紹介したいと思います。遙か後世に 
      正岡子規が明治以後の短歌や俳句の世界を方向付けたのとおなじように,その後の連歌のあり方を定める理論を明快に提示した良基もなかなか魅力的な人物です。
      
      「僻連抄」は良基26歳のときの著作で、連歌に手を染めてから十年くらいしかたっていない青年の手になるものですが、実に堂々たる気概に満ちた文章で、彼が後に師の救済の校閲を経て著した「連理秘抄」の草案とみられています。
      
      連歌を共同で製作するひとは何を心得ておかなければならないか、
      連衆の従うべきルールを定めたものが、「式目」ですが、良基以前の連歌では宗匠格の人がそれぞれの座で勝手に定めた規則に従っていたわけで、全国共通のルールというものは無かったのです。いわば、それぞれの地方で、「方言」を語っていた連歌の世界に「標準語」を導入するということを良基はやったわけです。
      
      「式目」の制定者としての良基については、またあとで語るとして、今日は「僻連抄」のもうひとつの大事な側面と私が考えているもの---彼の発句論についてお話ししたいと思います。
       
      良基は、まず発句は表現効果のはっきりとしたものが望ましいといいます。彼が、発句の良き実例として挙げている句は
      
      霜消えて日影にぬるる落葉かな
      
      です。(室町時代が始まったばかりの頃のこの句、もう俳句といっても通用しますね。)
      
      日影にぬれる落葉によって「霜の消えた」様を表現したこの句を
      良基は「発句の体」であるとのべています。
      
      ところで、時代は遙かに下りますが、
      「切字なくしては発句の姿にあらず」とは芭蕉の言葉です。
      ところが、その芭蕉が、別のところで、、
      「切字をもちふるときは、四十八字みな切字なり」
      とも言っています。
      
      つまり「かな」とか「や」とか「けり」というような言葉をつかわなくても句の「切れ」は表現されるわけですから、句に「切れ」があるかないかはどうやって見分けるのか、という問題が当然生まれます。
      
      さて、良基は、連歌論の嚆矢とも言うべき「僻連抄」の中で、
      「所詮、発句には、まず切るべきなり。切れぬは用ゆべからず」と
      切れの重要性を強調した後で、句に「切れ」があるかないかを見分けるじつに明快な方法を教えています。
      
      具体的には
       
      「梢より上には降らず花の雪」
      
      という句には切れがあるが
      
      「梢より上には降らぬ花の雪」
      
      には切れがない。
      
      その理由は、 
      「上には降らぬ花の雪かな」とは言えても「上には降らず花の雪かな」とは言えないからだと言っています。これなどは、実に分かりやすい説明ですね。
       
      俳句に季語は必要不可欠ですが、そのルーツを辿っていくと連歌の発句に「折節の景物」を詠むべきであるという良基の主張に出逢います。
      
      発句の成否は連歌の出来を左右するということを述べた後で、
      良基は、
      「発句に折節の景物背きたるは返す返す口惜しきことなり」
      と述べていますが、これは、その当時の連歌師に発句に季題を詠まぬものがいたことを示しています。
      
      連歌の「折節の景物」は、和歌の世界の伝統を受けたもので、後世の俳諧の季題のように多彩ではありませんが、良基は次のものを挙げています。
       
      正月には 余寒 残雪 梅 鶯
      二月には 梅 待つ花より次第に
      三月までは ただ花をのみすべし。落花まで毎度、大切なり。
      四月には 郭公 卯花  新樹 深草
      五月には 時鳥 五月雨 五日の菖蒲
      六月には 夕立 扇 夏草 蝉 蛍 納涼
      七月には 初秋の体 萩 七夕 月
      八月には 月 草花色々 雁
      九月には 月 紅葉 暮秋
      十月には 霜(十二月まで) 時雨 落葉 待雪 寒草(十一月まで)寒風(十二月まで)
      十一月には 雪 霰
      十二月には 雪 歳暮 早梅
       
      これらの景物を詠むべきであるとは、発句が嘱目の句でなければならないことを意味していました。従って、都にいて野山の句を詠んだり、昼の席で夜の句を詠むこと、「ゆめゆめすべからず」と注意しています。
      
      「発句の良きともうすは、深き心のこもり、詞やさしく、気高く、新しく当座の儀にかなひたるを上品とは申すなり」とは、後に「筑波問答」のなかで述べた良基の言葉です。